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にしんの煙 |
私が生まれたのは中国山脈に囲まれた盆地で、家は嘉永元年に建てられた茅葺きの木造平屋だった。家の一部は牛小屋になっており、山から吹き下ろす木枯らしから家畜を守るようになっていた.もっとも、東北地方の曲がり屋ほど大規模なものではなかったが。
建物としては母家の周囲に、蔵一棟、物置二棟、薪置場、煙草乾燥場などがあり、小学生の頃は母屋の一部屋を自室としていたが、中学校のころから物置の中に一室ある勉強部屋を使った.この部屋は、家族と一緒にいると気が散って勉強にならないので、別棟の物置に子供部屋を作ったものだった。
約二畳の板張の床、石炭箱のうえに畳を乗せたベッド、机と本箱を置くとスペ‐スは殆ど残らなかったが.勉強と睡眠だけのためだから十分だった。
ただ、隙間風の冷たさと、時折夜中に天井から落ちて〈るムカデには悩まされた。
期未試験の時期には、友人の家と自分の家をパイクで往復して勉強会をやったが、夜中の十二時頃に方人が来ても家族を起こさなくてすむので便利だった.
また、ラジオの深夜放送を聞きながらの「ながら族]としても、気楽だった。
次は上京して浪人中と大学二年までを過ごしたのが、やはり二畳の部屋だった。
階段の下の物置のような部屋だが、ちやんと窓が一畳分くらいとってあり、部屋として十
分使えた
この部屋では机に着いたままで本棚にも手が届くし、コーヒーを飲みたくなれぱポットにも手が届いた。寝るのは一畳。「立って半畳、寝て一畳」とはよく言ったもので、まさにこのころの私の部屋は人として生活するに最低限のスペスだった.もちろん食生活もそのレベルだったが、いまは住居の話だけにする。
驚く勿れこの部屋に友人が二人来て、泊まったこどがある。
頭を同じ向きにすると狭いし、気持ち悪いので、交互に反対方向に向いて寝た。
夜中に何度か顎を蹴られて目が覚め、目の前に汚い足があるのに気付いたが、彼らの方も私に蹴られたと言っていた。酒を飲んで酔っ払って寝たのでなんとか眠れたが、しらふではとても眠れなかったと思う。
台所は別棟にあったが、そこで二シンを焼いたことがある。もちろん自炊なのでサンマを始め色々な魚を焼いたことぱあったが、生のニシンを初めて焼いた。焼けるほどにポトポトと脂が落ち、盛大に煙が出てきた。台所に煙が充満しで息もできない程になったので、窓を開け放った。
それでも煙は抜け切らない。とうとう外に飛び出してしまった。
丁度そこに来たた大家さんが驚いたように
「火事ですか?!」
「いいえ、窓から出る煙の様子で魚の焼け具合を見ているんです」
「!!」
ということもあった。のどかな青春ではあった。

六本木、アマンド横から麻布十番方向へ下りる
「芋洗坂」。細い一方通行の路地を、都バスが身を
よじりながら下って行く。
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