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最近、私の通勤バッグが軽くなりました
子供が夏休みに入り、弁当が要らなくなると同時に、父親の弁当制作も休暇に入ったためです。つまり、私の弁当は子供の弁当を作る「ついで」であって、1つ作るのも2つ作るのも殆ど同じ労力だからカミさんが作ってくれていたわけです。
通常、のバッグの内容物で一番体積、重量共に大きいのがこの弁当箱です。つまり幼稚園児の黄色いバッグの内容物並みに、最重要物は弁当というわけです。
会社の会議室で弁当を食べながら思うのは「この沢庵の匂いが午後のミーティングまでずっと残っていたら、ちょっとマズイかな?」とか、「この頃ご飯が全部食べきれないのは、年の所為で胃が小さくなったからか、あるいはカミさんが残りそうなご飯を全部詰め込んだからか?」など他愛ないことで、あまり哲学的な思索にふけることはありません。
しかしながら、弁当にまつわる思い出は、同年の団塊の世代の皆さんと同じくらいあります。
一番古い思い出は、小学校の木造校舎の廊下の端にロッカー型の「弁当温め器」があったことです。中は数段に区切られ、底が金網の引出しがその段数ついていました。
手のかじかむ冬の朝、登校すると、皆弁当をクラスごとに決められた金網引出しに放り込んでから、授業が始まるのでした。弁当箱はアルマイト製が普通だったと思います。(毎日梅干が当たるフタの真中がよく穴が開いたものでした)
「弁当温め器」の一番下には火鉢があり、その熱で弁当を温めるわけです。一番下が良く温まるので、金網引出しの利用権はクラス毎に、毎日順番に下がって行き、不公平を無くしてありました。
この状況の中で、最も普遍的(?)に起こったことが、前述の「沢庵の匂い」が「全員の弁当の香り」となったことでした。沢庵を温めると、その匂いは考えられる以上の伝達力で、沢庵無しの弁当まで侵食して行くのでした。
今の子供は「お新香は弁当に入れないで」とか「朝は納豆は食べたくない」とか、匂いに気を使うようですが、昔は格好をつけている余裕はありませんでした。何といっても弁当のおかずの最高は「タマゴ焼き」だったのですから・・・・。
そのタマゴはといえば、庭に放し飼いにした鶏が充分に運動し青菜や草や虫を食べて産んだ、栄養満点のダイダイ色の卵だったのです。今では侘びしくも贅沢な一品でした。
ただ、そのようにニワトリ様の恩恵に授かる者はクラスに数人であって、あとの40人は(1クラス45人でした)、その美しいタマゴ焼きを横目に、沢庵・目刺・オカラの詰まった弁当を掻き込むのでした。(イヤー、当時はマズシかった! いや、そう言えば、今の私の弁当も不況に対抗する「生活防衛」のためでした!!)
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