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本屋で立ち読みをしながら考えました。
「この調子で出版物が増え続けたらどうなる・・・・?」
毎月、毎週、いや毎日、膨大な書籍が出版されています。
(その割りには出版業界は不況の真っただ中のようですが)
読む方も大変です、とても読みきれません。雑誌、新聞の書評欄で紹介された本だけを読もうと思っても、無理な話です。
各種出版物を受け入れている国会図書館もいずれパンクするでしょう。
マイクロフィルムでの保存は面白くありません。なぜなら、今から二千年ほど経って「平成時代」の遺跡から発掘された記録物がフイルムやデジタルでは興ざめだと思いませんか?
せめて紙の、出来ればコウゾかミツマタの木から漉いた和紙に印刷したものであって欲しいものです。
我々は歴史のなかで「パピルスの紙」や「木簡」に記された古代の文字を目にするから、空想が広がるのであって、これが化学物質では夢もへったくれもありません。
我々の子孫には「二千年前の平成の時代には、こんな紙を使っていたんだ!」と驚いたり、感心したりしてほしいわけです。
出版物が溢れている理由の一つにパソコン/ワープロがあるかも知れません。
ひと昔前は、自分の文が活字になることすら稀でした。本や新聞になるという意味での「活字」だけでなく、「手書き」に対応する「活字」の意味においても、です。
こうして駄文を書いても、すぐにプリンターから印刷物として出てきます。鉛筆を舐めながら、あるいはペンダコを作りながらという人は少数派になっています。
作家の方々も、以前なら一日に書く原稿用紙には限界があったのですが、ワープロがあれば数倍のスピードで執筆が可能になりました。下手をすると口述したものを作品にすることすら可能なのですから、「推敲」などという言葉は死語になるかも知れません。
しかし、博物館や文学館で古の作家たちの、書き込みや、消し込みなど推敲の跡の残った原稿用紙を見ると何だか嬉しくなってしまうのは私だけでしょうか?
科学は進歩して欲しいけれど、どこかに人間らしさ、未完成の部分を残して置きたいものです。
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